(以下の記事は第1次安倍内閣の時に書いたものである。2012年(平成24年)12月から始まった第2次安倍内閣下で、安倍首相は再び愛国心を喧伝し、憲法改正を訴えている。2014年4月28日号の米タイム誌は彼を「愛国者」と呼び、首相自身も認めている。7年前の記事ではあるが、今も妥当な内容だといえよう。)

ジャパンタイムズ − 2007年(平成19年)5月23日水曜日

民主主義社会における不合理
「愛国心」は憲法から除外せよ

ハンス・ブリンクマン (訳=溝口広美)

平成17年10月、自民党が新憲法草案を公表した。前文には、「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」という文言が含まれている。野党をなだめるために削除した「愛国心」をほのめかしているといえよう。

昨年9月に内閣総理大臣に就任して以来、安倍首相は憲法改正や教育制度の見直しを経ながら、愛国心を教え込もうとしている。愛国心教育は彼の政治課題の主眼である。憲法改正については時間がかかるだろう。だが、確実に続いている。

こうした与党の狙いに対し、日本国内外のリベラル陣営や中道派は強い反応を示している。わずかな懸念を示す声から深刻な警戒まで、さまざまだ。今のところ日本の政治が極右になびくということはないだろうし、大部分の日本国民は国が偏狭なナショナリズムへの危うい道をまっしぐらに進むことを決して望んではいないだろうが、こうした一連の展開は、国際社会において厳しく分析されてしかるべきだ。なぜなら、日本は世界の主要国家のひとつであるからだ。最終的な結論を下すのは、当然のことながら、日本国民であるが、問題点を報じ議論を活発に交わすことは思考の助けとなるかもしれない。

何を問うべきか。日本国憲法に愛国心を言及するという政府の法案は間違っているのか。私は、間違っていると思う。

● まず、民主主義社会では、憲法とは国民が国の指導者に与える契約であり、その逆ではない。フランス共和国憲法はその点が明らかだ。「人民の人民による人民のための政治原理」(第2条)。「国の自治権は国民にあり、選挙で選ばれた代表者と国民投票により行使される」(第3条)。

アメリカ合衆国憲法も同様に国民主権を明らかにしている。「われら合衆国の人民は、(省略)この憲法を制定する。」(前文)

ヨーロッパで最も古い民主主義国家のひとつといわれているオランダの憲法には国家の主権がどこに依拠するかということは明記されていないが、細部にわたり事務的な記述による条項を読めば一目瞭然だ。国民が有する多岐に及ぶ権利と、内閣および議会が国民に必要な福祉と安全を与える義務が箇条書きにされている。

日本では、憲法改正の際には、衆参両議会において3分の2以上の賛成に加え、国民投票で賛成多数を得ることで改正の手続きがとられる。つまり、これで民意が反映されたとみなされるわけだ。ところが、愛国心をめぐっては、国民の間から湧いてきた動きではないうえ、「もっと強い愛国心」を求める草の根運動は皆無だ。むしろ、安倍首相の案件に対する疑心が広まっている。愛国心を唱えるのは右派政治家で、力ずくでも改正すると決意していることは明らかだ。

● 上述したフランス、アメリカ、オランダの憲法では、なんであれ愛国心というものを唱えていない。

● 愛国心という概念は本質的に感情的かつ個人的なもので、それを憲法に明記するということは不適切であるのみならず、潜在的に危険だ。歴史をひもとけば分かるように、熱烈なナショナリストである政治家というのは自分の政治的目標を成し遂げるために愛国心に訴える傾向が強い。時には独裁者となり徐々に人民の自由と正当な権利を奪う。いわゆる民主主義の原理のもとで選ばれた、今の世界の指導者たちの間でも、賢明で確かな判断を怠った時には、自らの見解を承認させるため、愛国心に訴えることが常習化している。サミュエル・ジョンソン博士が1775年に書き留めているように、「愛国心はならず者の最後の拠り所」といえよう。

● 愛国心は人種差別と類似している。つまり、潜在的に、他者より自国民の有益に重きをおく。そういう意味では、コスモポリタン的なるものと正反対だ。愛国主義下では、民主主義社会における国民主権の最たる権利のひとつにあたる参加型政治は、最善の発展が不可能となる。そのかわり、民主主義的な段階を無視したデマによる大衆扇動と、上部からの指令がとってかわることになるかもしれない。

● 「美しい国、日本」を愛せよと連呼することは、若者が独自で考え、自分の望むような自己形成を遂げる妨げとなるだろう。日本の学生の間では留学に対する興味が失われている。そのため、世界における日本の競争力がすでに翳りをみせているようだ。

● 最後に、武力行使を放棄するとある憲法9条をこのたびの憲法改正の対象として挙げ、太平洋戦争中に日本軍が犯した殺戮を最小限に言及することを日本政府が繰り返していることを考えると、「さらなる愛国心を」と唱えている、その当事者の真の思惑というものを、当然ながら、疑わずにいられない。

自国を、また自国の歴史や文化や遺産を誇りに思う気持ち自体はなにも間違っていない。むしろ、それは実に普通の状態だ。民主主義が上手に機能している国家の国民は誰しも自国を誇らしく思っており、国の安全が脅かされようという時には防衛のため立ち上がるにちがいない。

この点は、日本人も例外ではない。私自身の体験や観察からそう思う。自国を愛する気持ちというのは、両親を愛するように自然な感情なのだ。それは学校で教育するものでも、憲法で正式に謳うべきものでもない。

元ニュースキャスターで政治ジャーナリストの櫻井よしこ氏は、ジャパンタイムズ紙のインタビューで、憲法の前文に愛国心という言葉を記すことと、愛国心を育む教育を行うことを強く擁護している(2007年5月8日掲載)。日本がファシズム化するという恐れは荒唐無稽だと述べ、現行憲法が個人の権利に重きをおいていることを批判する彼女は、明らかに国民主権の原理を好ましく思っていない。ちなみに国民主権は民主主義の基本的理念であり、この文言は自民党改憲草案でも維持された。

現行憲法でも自民党草案でも天皇は象徴と記されているが、櫻井よしこ氏は、天皇を「象徴」ではなく国家の元首とすべきだと述べる。

愛国心を擁護する議論を論駁できる理路整然とした考えと言葉を、野党が見いだしてくれることを望むのみだ。日本国憲法と学校教育に愛国心を持ち出すことは、民主主義国家にとって不合理のみならず、逆効果であったということになるだろう。定期的な国家行事を儀礼でごまかし、国家の誇りを取り戻したという幻想を産み出すかもしれない。

若い世代はそれなりの態度を見せるだろうが、それは本心ではない。愛国心に凝り固まった人間が望んでいる、息も詰まるような、命令に従うだけの、リスクを回避する愛国主義者の人生を歩むかわりに、彼らはすでにコスモポリタンな世界で思い思いの自分らしい人生を求めて生きている。中曽根元首相が唱える武士道精神の復活の声は、彼らにとっては、空き家に向けての叫び声のようなものだろう。

愛国心の問題は、イエスかノーかで解決できるようなものではない。個人のアイデンティティ形成とはおおむね社会福祉を考慮して、バランスよくなされることが重要だ。家庭で学校で、ひとりひとりの可能性を伸ばすと同時に、将来民主主義社会の一員として責務を担うことを教えなくてはならない。

2006年12月にユネスコの調査が発表したところによると、15歳の日本人の30パーセントが「孤独だと感じる」と答えたという。世界でもっとも高い数値だ。これは2位のアイスランドの3倍、あるいは、民主主義の伝統と理性を重んじるオランダの10倍だ。愛国心に訴えても、子どもたちの孤独感は払拭できない。それより、彼らの求めるものが何かを考え、彼らの声に耳を傾けるべきだろう。

憲法に愛国心を記したところで日本の問題は解決しまい。日本の将来の利益にもなるまい。むしろ、この先の日本の民主主義の行方を不安にさせる。何事も、初めの一歩が肝心だ。

ハンス・ブリンクマン(作家)オランダのハーグ市生まれ。URL:www.habri.co.uk(英語のみ)http://habri.jp(日英)


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