Carbon Footprint:二酸化炭素の足跡イコール排出している二酸化炭素の量、すなわち悪者 いま、環境問題が「旬」の話題だ。ニュースでも毎日のように地球温暖化の話題 がとりあげられている。二酸化炭素の排出高は悪者の残す足跡のように語られ、そのためわたしたちはエネルギーの無駄遣いを痛切に感じるようになってきた。 しかもこの問題はミニスカートや高繊維食品の朝食のように一時的な流行ではな く、海面の上昇も気温の上昇も事実だから深刻だ。二酸化炭素の排出高がBMI指数のように科学的に表示できたら、一人一人がこっそりと残す二酸化炭素の足どりを消すために法的措置がとられるかもしれない。現在の自動車のCO2排出量のコン トロールは厳しくなっているが、将来は個人レベルでのさらなる責務が強いられるかもしれない。
レンジローバーやフォードエクスプローラーといったガソリンを食うSUV車など 、 あざけりに満ちた眼差しだけにとどまらずもっとひどい仕打ちをこうむることもあるそうだ。特に環境問題に対する関心が強い欧米の都市生活者からの抗議が 強まってきている。 自分の子どもの頃に体験した寒い冬や、通学途中に雪投げをした思い出などをな んとはなしに話しながら、昔に比べると最近の気候パターンは変ったと感じる。ストリート・フォトの先駆者として日本でも有名なオランダ人写真家エルスケン が1960年代に撮影したアムステルダムの運河でスケートをする人々の写真を自宅に飾っているのだが、先日オランダから遊びに来た同郷人はその写真を見ると「運河でスケートなんて、もうだいぶ昔のことだね!」と笑い飛ばしていた。 環境問題が自分たちと関係しているなど思いもしなかった。ところがここ数年で 様子がずいぶん変った。津波による被害、日本やヨーロッパを襲うゴビ砂漠やサハラ砂漠の砂塵問題、ゴア元アメリカ副大統領の映画『不都合な真実』などが、このままではいけないという警告を発し、さらにテレビで報道される深刻な干ばつ、洪水、溶けている氷河、高騰する石油価格などがますます危機感をあおる。わたしも外を歩く時、車を持っていないにもかかわらず、もしかしたら恥知らず なほど巨大な二酸化炭素の足跡を残してはいまいかと、肩越しに後ろを振り返りながら歩かずにはいられない。 長年愛用していたランドローバーは2003年に手放した。腐ったトマトを投げつけられる前にこの恥さらしな車を処分したのは幸いだ。日本で暮らしはじめたら、公共交通機関で十分なので今では車なしの生活だ。 この先わたしたちを取り巻く環境はどうなるのだろうか。地球がこの先もわたしたちの子孫をはじめとした生き物の生存を脅かさないままでいるために、ひとりひとりができることは何か。 だいたいの人は地球温暖化の最たる原因に気づいている。急増する人口と生活水 準の向上だ。世界の人口は1960年の30億人から今日では65億人にふくれあがっている。2040年か50年には90億人に達する見込みだ。今の若者はきっと人口が急増する世界を体験するだろう。これから加わる人口は温暖化を加速させ、彼らの生活水準の向上により炭素排出量は極端に高まることだろう。中国やその他の急速に成長する国などを見ていれば一目瞭然だ。 昭和の知恵つまり、地球で暮らす人間の生活を変えることが唯一の対応可能な解決策なのだ。過酷な暮らしを強いられている大多数の人にもよりよい生活を送る権利はある。長い間貧しい暮らしに耐えていた人たちが豊かな生活を送ろうとすることに対 し、誰がそれをとめることができようか。
それはできまい。先進国のわれわれが贅沢な暮らしを見直すことは可能だ。温暖化の発端を引き起こした当事者、つまり工業先進国が犠牲をはらうべきだろう。 どれほど難しいのか。50年ほど前の暮らしを思い起こせばそれほど面倒ではなかろう。わたし自身あの頃の日本人がどれほど物を大切にしていたのかということをよく覚えている。しかもそれが当然のこととしてなされていた。水、紙、食べ物、生地、車のタイヤ、燃料などは無駄使いせず、再利用をしていたのだ。特別なことではなかった。当時は「地球を救え」などというスローガンなどなかったが、無駄使いは理にかなうだけではなく節約にもなることを皆が知っていた。 たとえば思いつくままに挙げてみよう。 風呂は一日一回だけ沸かし、家族全員が同じ湯を使う。風呂につかる前に身体を 洗うことで、いちいちあたらしい湯を用意しなくてよい。 受け取った手紙の封筒は丁寧に開け、裏返しにして糊付し、再度使う。 玉ねぎの皮は染色剤として再利用。お茶の葉は床にまいて箒で掃く(ホコリをとるのに効果的だから)。ミカンの皮はにおいを楽しむために捨てずにとっておく。残ったパンはパン粉として利用。笹の皮はしぶい趣味の皿として使用。 シャツやブラウスは修理をしながら着、靴下は穴があいたら修繕し、スカートは ミニが流行すれば丈を短くしてリフォーム。あまった布地はロングの流行が復活したあかつきにもとに戻す。 車のタイヤの表面が摩滅したら、全部を取り替えるのではなく古くなった表面だけを新しくする。 こたつは効率のよい暖房器具だ。もし背中が寒いようなら丹前やウールのベストを羽織るとよい。 買い物袋はゴミ袋として再利用。箱や缶も戸棚やタンスの仕切りとして活用。 昭和の暮らしを体験した人たちはこれ以外にも思い付くことがきっとあるにちがいない。経済的困窮がなくなってもなおこうした習慣をやめない人たちも中にはいる。しかし若い世代の中には本当の貧困というものを知らないから、このように切り詰めたやり方を笑うかもしれない(少ない所得で生活しなければならない人は、すでに自分なりの節約術を身につけているかもしれない。たとえばフリーマーケットで買い物をすることなど)。 着古した服を再利用したり、靴の底を張り替えたりすることで倹約することより むしろ、そうした努力を払う精神を取り戻すことが大切なのだ。ものの大切さを学び、お金をためるためではなく無駄に使わないために燃料や食料や物を賢く利 用するようになったら、その時こそ真の意味で「地球を救う」ために貢献できるのだ。 二酸化炭素の負担を足のサイズで例えてみると、わたしたちはもっと小さい足跡を残すことができるのだ。 次回もこの問題についてさらに考えてみたいと思う。 (平成20年3月19日 原文は英語。溝口広美訳) |
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