バブル経済後の日本の社会の中で最も変ったのは雇用形態だろう。非正社員の増加が著しい。これは男性にも女性にも言える(ただし女性の場合は男性に比べ比較的上昇率が抑えられている)。2006年の経済協力開発機構(OECD)の報告書でもこのことが言及されている。日本の労働人口約六千万人の3割近くが非正社員、さらにその3分の2がパートタイム労働者だ。 多様な個人的事情理由はさまざまだ。正社員の職がない。従来の終身雇用という「束縛」にとらわれたくないからパート労働を選ぶ。後者は「フリーター」とも呼ばれている。一方で「ニート」は長期にわたって仕事のない人のことだ。フリーターもニートも質素な生活を送り、中には貧窮状態の人もいる。たいていは両親の元で暮らしているか、共同生活をしている。まったく新しいタイプの日本人だ。多くは都市生活者で、地方から都会へやってきた人たちも含まれる。彼らは何の目的もなく生きているか、何かを求めて生きている。フリーターとニートを合わせると、何百万人ちかくに及ぶのではないかと言われている。 「引きこもり」は文字どおり自宅にひきこもっている状態のことで、10代から30代までの幅広い年代層に認められる現象だ。何十年間も引きこもりの状態が続くという症例も報告されている。だいたい親と同居している場合が多く、親は引きこもる息子/娘に頭を悩ませているが、甘えを許し、腫れ物にさわるように扱っていることも事実だ。母親は引きこもる子どもの食事を用意し、それを特定の場所に置いておく。彼らは家族と一緒に食事をしないのだ。現在、正式な数は定かではないが、おそらく五万から百万人とみなされている。こうした数字のぶれは政治的、社会的立場により用語の定義が変ってくるからだといわれている。 社会から落ちこぼれることなく、最低賃金の単純作業労働に甘んじるわけでもな く、かといって引きこもることもせず、とにかく従来の慣行に背を向ける新しいタイプの人間もあらわれた。東京の表参道やその裏通りを闊歩しているそうした人たちは、あまりお金をかけずに奇抜で幼稚で突飛なファッションを楽しんでいる。日本が「モノトーンの背広姿のサラリーマンと従順な女性の国」というのは 偽りだとさえ思えてくる。
自由で創造的な“新日本人”今の日本にふぞろいで非生産的な彩りをそえている“新日本人”も、昭和以後にあらわれた人たちだ。アーチスト、デザイナー、ライター、コンサルタント、フリーランスのジャーナリスト等々。性別を問わず、彼らは意欲的に自分の能力を発揮して、2、30年前には全く考えもしなかったようなライフスタイルを創造している。また外国人たちもこのような個人のイニシアティブと能力の場に加わっている。こうした自由で創造的な個人の存在のおかげで、昭和の頃と比べると大都市にはいきいきとした活気があふれているような気がする。 定年退職を迎えた人達も自分の可能性を見いだそうとしている。昭和の頃だったら、おそらく大半は暇つぶし程度の仕事を見つける希望しかなかった。ところが最近はインターネットなどを活用し、自分の能力や技術の有効利用の場を開拓するようになってきている。コンサルタント、アーチスト、ライター、テクニカルサポーターという名で、新たな機会を見つけ仕事にさらなる生き甲斐を見いだす。私も言ってみればそうした一人だといえよう。ライターとして本を書くだけではなく、自らのウェブサイトで持論を発信し、講師として話をすることもある。銀行のエグゼクティブとして働いていた頃に比べ、今の仕事の方がずっと意義あるもののように感じるし、当然のことながらより幸せだ。
昭和から変らないイメージとしてのダークスーツ姿のサラリーマンもいまだに根 強く残っている。しかし終身雇用の時代は終わった。昇進や昇給は年功序列ではなく能力によって決定される。 過去20年あまりの間、社会が大きく変ったことで確かに“新日本人”が生まれてきた。均一化した昭和の日本とは一線を画している。伝統的価値観の否定であれ、己の目標を追求するためであれ、彼らは高度経済成長期の従順な大衆とは全く違う日本人だ。アメリカ型市場経済志向の中から生まれて来た新しい人間だ。それは、長い間日本で機能してきた家父長的で平等な社会の終焉を意味している。 ますます厳しくなる状況終身雇用制度が無くなり、その後に起ったことはこうだ。安定した職につけない人たちは急速な勢いで「貧困層」へ転落し、日本の所得格差は年ごとに拡大しつつつあるのが現状だ。前述した2006年のOECDの報告によると、日本のパート労働者の時給は正社員の40パーセント相当にしかあたいしないという。子どもの貧困も急速に深刻化してきている。全国平均14パーセント。経済的な理由で親が子どもの学用品や給食費をまかなえない状況が起きているわけだ。 こうした統計から推論できることは、長いこと安定した繁栄をおう歌してきた日本の中流階級が次第に減少してきているということだろう。市場経済が新たな宗教となり、民営化は聖杯と化し、必要のない分野にまで及んでいる。例えば郵政の民営化だ。日本では素晴らしく機能しているのに、なぜ民営化に踏み切ったのだろうか。 伝統を断ち切った日本の社会に対し、政治が追いついているようには思えない。 有権者たちも広い視野をもった国策より、具体的な問題にばかり気を取られ、貧困の増加が報じられていても左派の台頭の兆しなどみられない。左派の声はいま だに無関心の範疇といった感がする。倹約の美徳が再び脚光をあびているようだが、それでもまだ多くの人にとって貧困は切実な問題として実感されていないのが現実だ。 平等でしっかりと管理された社会が長いこと日本のトレードマークだったが、それではグローバル化する世界に対応できないことが明らかとなり、日本も自由市場経済の競争へと加わった。増加する日本の貧困層は避けることのできなかった帰結なのかもしれない。しかし暗い現実ばかりではない。古い社会秩序のもとでは注目されなかった人々に、新たなチャンスが到来したわけだ。 中でも女性の活躍は目ざましい。昭和40年〜50年には、いわゆるOLと呼ばれ ていた女性社員の仕事といえば、コピー取りとお茶汲みと簡単な事務処理程度であった。私がマネージャーとして勤めていたオランダの銀行の日本支店の女性行員は仕事の内容に差異はなかったにもかかわらず、男性とは別の給与体系のもとで働いていた。さらに女性の場合、三十歳で終了していた。つまりそこで退職を するようにうながしていたわけだ。うちは外国の銀行ではあったが日本の銀行の雇用体系にしたがっていたから、これが当時の日本の慣行であったといえよう。 だれもこれに不服を申し立てることはなかった。私は男性行員の反対にあいながらもこの不平等を撤廃しようとしたが、係長以上の役職を女性に与えることは不可能であった。 ところが現在の日本では、要職につく女性の姿をよく見る。私自身、仕事でもプライベートでも有能な女性たちにしょっちゅう出会う。編集者、ジャーナリスト、若い法律家、税理士、銀行のマネージャーなどなど。彼女たちはジェンダーの壁を越えて活躍している。もっとも大企業ではいまだに見えないガラスの天井がたちふさがっているのかもしれないが…。 こうしてみると、日本の社会における家父長的な性質が薄れ、多様な日本人が出現することで、エネルギーみなぎる有能な個人へより多くのチャンスが開かれるわけだ。これは日本の労働力に対する新たな挑戦といえるかもしれない。誰もが競争の激しい環境に対応できるとはかぎらない。それでも全体としてはもっとしっかりとした社会となり、さらなるグローバライゼーションと相互依存のすすむ世界の中で生まれる課題を巧みにこなして行けるのではないだろうか。 だが、あまりにも極端になると社会の弱者は保護がなくなり、アメリカのように自分の面倒は自分でみよ、とばかりにほったらかされる危険がある。「勝者でなければ敗者だ」という考え方が日本の土壌に浸透しつつあるが、比較的社会階層感がなかった日本のような国にとって、これはよくない前触れだ。 こうした問題が公衆の前で議論され、誰でも意見が言えるような活発でオープン な政治の場があれば、自由市場というシステムが単なるイデオロギーにならないように防ぐことができるだろう。一切の異議申し立てを許さず人の苦しみから乖 離したイデオロギーの餌食にならないよう議論を尽くさなければならない。 (平成19年11月31日 原文は英語。溝口広美訳) |
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