変容する社会3
今なぜ昭和ノスタルジーなのか

本エッセイはハンス・ブリンクマン著/溝口広美訳『あるオランダ人の「昭和ジャパン」論』(ランダムハウス講談社)からの抜粋である。引用ページは24ページ、および27〜29ページ。

昭和ノスタルジー

16年前に終わった昭和という時代が、昨今の日本で誇りをもって懐かしく語られている。

憧れや興味は尽きることなく、個人的には昭和の思い出がない若者たちにとっても昭和はどこか粋な雰囲気にあふれる時代のようだ。自分の両親の価値観には親しみを覚えないのに、昭和はかっこいい。60〜70年代のレトロファッションが流行しているのも、そうした若者たちの関心の高さを表しているのかもしれない

昭和とは第124代天皇裕仁(ひろひと)が在位した期間を指す。1926年、彼が25歳の時に践祚(せんそ)、1989年1月7日に87歳で崩御するまでの63年間を昭和と呼ぶ。

裕仁天皇自身が「昭和」という年号を決めたと言われている。中国の書経にある「百姓昭明、協和万邦」から引用されたもので、意味は国民の平和と世界の共存繁栄。しかし昭和がはじまり1年もたたないうちに中国への侵略がはじまり、軍部が台頭。それから18年間の年月を日本は平和ではなく侵略と戦争に費やした。

そういうわけで、たいていの日本人は昭和というと1945年以降の時代を思い出す。敗戦後の平和と繁栄の時代だ。「昭和」という言葉を耳にして多くの日本人が思い浮かべるのは、そうした優しくおだやかなイメージだ。真面目で正直で安全な世の中、それが昭和なのだ。1980年代の終わりにバブル経済がはじけ、日本がこれまでにない厳しい現実に直面する前の時代の話だ。奇しくも天皇は崩御し、確かにひとつの時代は終わったのである。

聞きたくない昭和の思い出もあるが、それは昨今の昭和ノスタルジーを盛り上げるムードには必ずしもそぐわない。ノスタルジーは感じるところに生み出される。事実は二の次というわけだ。

明確な目標のあった人生、勤勉さ、小さな喜びの数々、家族の団らん、きっと暮らしが楽になるという希望 − そうしたものが戦後の昭和にはあったと、人々は愛着をもって懐かしむ。三世代が一つ屋根の下で暮らし、路面電車やダムのない自然の渓流があったのが昭和。夕飯をちゃぶ台で食べ、畳の上に坐り、蝉やこおろぎや鈴虫の鳴き声を聞きながら、糊のきいた木綿の浴衣と扇風機と団扇とシロップをかけたかき氷で涼をとったのがあの時代。一家の大黒柱にとって日曜日のゴルフが唯一の楽しみだった。休暇も取らず、ボーナスは使わずに貯えた。

希望と献身 − 昭和はこの二つに尽きる

大気汚染、超満員電車、残業続きの毎日、低水準の住宅建築などについては思い出したくもないが、白黒写真で見る分には構わないだろう。昭和天皇の人生についても同様だ。つまり当時の雰囲気に浸りたいわけだ。

おそらくあの頃の回想は若かりし日々を思い出すようなものと言えるだろう。些細な物事に美を見いだし、友情を深める喜びを知り、努力をすれば報われると信じていた青春時代を振り返るようなものなのだ。テレビやコンピューターゲームやケータイが氾濫する現代社会では、こうした青春像はもう古い。家族や会社や地域が密接につながり、個人が孤立することがなかったのも昭和ならではだ。こうした安定した人間関係ももはや過去のものだ。

自動車
神戸 京町 昭和天皇を乗せた自動車 (昭和33年)

わたしは昭和7年に生まれた。日本にやって来たのは18歳の時、「平和な昭和」がはじまったばかりの昭和25年のことだった。昭和28年には、天皇陛下を乗せたボックス型の高級車がわたしの職場の前を通過した。それから36年後の1989年1月7日、天皇崩御を悼み、「昭和の生き証人」の一人として皇居広場で記帳をした。

2005年に、日本での思い出を綴った拙著『まがたま模様の落書き − あるオランダ人が見た昭和の日々』を出版した。昭和25年の初冬、オランダの銀行の銀行員として神戸へ赴任。当時わたしが感じた日本は以下のようなものだった。

(出典:ハンス・ブリンクマン著/溝口広美訳『まがたま模様の落書き』(新風舎)31〜33ページ)

オランダと日本の茶の作法

下宿先で最初の発見をした。A氏(職場の先輩で、当時彼と日本人宅に下宿していた)が、自分だけが家にまで仕事を持って帰らなくてはならないなどとぶつぶつ文句を言いながら帰宅する。そんな彼やわたしが仕事から戻って来る時間を見計らって、下宿の奥さんが、茄子色をした大きな火鉢に火をおこし、部屋に持ってきてくれることに気がついた。石油ストーヴをつける前に、これで凍えた手を温めることができる。
奥さんは品のよい婦人だった。戦争時の苦労が彼女の顔に深く刻まれていた。白く染まった髪の毛を後ろにまとめ、いつも藍か鼠色の地味な着物しか身につけていなかった。きりっとした表情の女性だったが、思いやりに満ちていた。広い室内を威厳に満ちた態度で歩きまわり、ほとんど音らしい音さえたてなかった。彼女の静かな表情の中には媚びたものは一切なく、動作はなめらかで、優雅な円熟味がただよっていた。
お茶を入れる時には、黒檀のちゃぶ台の上に漆塗りの小さな茶托を置き、そこに湯のみ茶わんをのせる。決して身体を曲げず、上体をまっすぐ起こしたまま正座する。陶器と漆器が触れ合う柔らかな音が、障子を通して感じられる夕闇の中でかすかに聞こえた。まるでマニキュアを塗った爪先が、薄いシャンペングラスのふちに触れた時の感覚を思い起こさせた。香ばしいお茶を注ぐ時、奥さんはちょっとだけ首を傾げ、片手を軽く急須の蓋に添えた。寒々とした部屋に、ほのかに広がる茶の香りが何とはなしに郷愁を誘う。乾し草を焼いている、秋のオランダの田舎の光景を思い出した。母は決してこんな風にお茶をいれたことなどなかった。磁器製のティーカップと銀のスプーンが触れ合う鋭い音には、陰影の中に漂う言葉にならないもの悲しさを思い起こさせるような詩情はなかった。

日本式風呂と西洋式風呂

日本式の風呂にも、特別な何かを感じた。A氏は「ロブスターのようにゆでられるのはいやだ」と言って、定期的にアメリカ人の友人のところでシャワーを借りていた。わたしはというと、奥さんが「お風呂、いかがですか」と声をかけてくれるたびに風呂場へ向かった。
いつも風呂は夕食の前と決まっていた。日本の男たちは仕事で疲れた身体を、ちょうどいい湯加減の風呂につかってほぐすのだった。
その家の風呂は五右衛門風呂だった。まるでアフリカの原住民が白人の伝道師たちを料理した時に使ったのではないかと思わせるような巨大な釜で、外側はたしかセメント塗装をしていたと思う。浴室の隣に火をおこす場所があり、大釜の下から水を温める仕組みになっていた。その家の風呂場は母屋の外にあり、檜造の建物だった。鉄製の大釜の底には丸い厚板が敷かれていて、熱くなった鉄に直接足の裏が触れないように工夫されていた。しかし側面はむきだしのままだったので、そこには触れないように気をつけなくてはならなかった。
洗い場で身体を洗ったあと、お湯地獄に浸かるという入浴は肉体的行為というより精神的行為に近かった。今でもはっきりと覚えている。なぜだろうか。風呂場の熱気とは対照的に、外は突き刺すような寒さだったからか。それとも檜の香りが心地よかったからか。小さな窓からちらちらとのぞく奥さんの姿と、時折聞こえてくる「湯加減はいかがでしょうか」という彼女の声のせいだったのだろうか。わたしにはわからない。ただはっきりと言えるのは、この体験はわたしが発見した「隠された美」の中でも最初の一つだったこと、これで否応なしに日本情緒にどっぷりと浸かってゆかざるを得なくなったということだ。(『まがたま模様の落書き』31〜33ページ)

今の日本における昭和ノスタルジーは、欧米で60年代の性解放、サイケ,学生運動などを懐かしむものとは違うような気がする。もっと感情的なものだ。経済大国として突き進んできた過程で、貴重な何かを失ったのではないかという思いがあるのではないだろうか。

それは一体なにか?

次回は、「失われてしまった昭和の価値あるもの」について、それらを平成の現状に照らし合わせながら述べてみたいと思う。

(平成19年4月 溝口広美訳)


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