変容する社会10:ボランティア的姿勢だけでは京都議定書の成功は不可能

今回は、地球温暖化やその影響が日本の社会にもたらす変化といった問題より、やや有害度の低い話題を取り上げてみたい。

今の東京は世界でも屈指の「美食の都」である。去年(2007年)はミシュランガイドの東京版が刊行され、「星」のつくレストランの数がパリの2倍ということで、商業主義を指摘する批判や、星をとれなかったレストランからは審査員の公平さを疑う声があがった、という記事を読んだ記憶がある。

そこでわたしは友人と「真相」を探るという目的で、この半年間、東京都内にある評価の高いレストラン - 老舗より新参の店 - を選び、出かけてみた。ミシュランガイドのようなランク付けをすることが目的ではなく、現在の東京の食文化全般がどのようなものかを知ることが目的だ。ある程度の公正さを保つため、今回はフレンチとイタリアン料理、あるいはそのバリエーションのみを試すことにした。なにもアジア料理、モダンオーストラリア料理、進化したイギリス料理などをみくびっているわけではないことを、ご了承いただきたい。また、ホテルのレストランも除いた。

わたしたちが試した20軒近くのレストランはどれも値の張る店で、一人あたりのディナーは5千円から1万5千円(ドリンク、サービス料、税は除く)といったところだ。

まず述べたい結論としては、料金が高いからおいしいとはかぎらないということだ。たとえば、青山のラ・ロシェルのディナーは最も値段が高く、息をのむほど美しい盛り付けではあったが、皿の上の食材が競争しあっており、ウェイターはわたしたちの会話をいちいち中断して、食材に関する長い説明をしなくてはならなかった。東京にある高級感あふれるレストランでは、ウェイターの冗長気味な説明は珍しくはない。しかし、あまりにも落ち着きがなさすぎる。「ここの食事は調和というより、多音といったところかな」と言う友人に対し、わたしは「不協和音」と不機嫌につぶやいた。

銀座のシャネルビルの最上階にあるアラン・デュカスのレストランも、洗練されてはいるものの、あまりにもかしこまりすぎて料理を楽しむどころではなかった。ウェイターたちから「見張られている」という感じで、頼みもしないのに、フォークとナイフの使い方まで「指導」されてしまった。

半蔵門にあるアルゴというフレンチレストランの、見事なデザインの食器類は、実際に使ってみると使いにくかったが、見ているだけなら楽しい。料理の味は素晴らしかった。

国立新美術館内のポール・ボキューズでは、メニューの品数は少ないながらも、美味なフレンチを独特の雰囲気の中で体験できる。詳しくはハブリ日記のバックナンバーをご参照ください(2007年11月14日)。

六本木ヒルズ内のラトリエは、他の追随を許さぬロブションらしい雰囲気をかもしだしている。カウンター席は二人以上で座るとかなり会話が難しいデザインになっており、スポットライトのような明かりの下で、洒落た黒装束のスタッフたちがサービスをしてくれるのだが、どうも気になる。食事は値段を裏切らないクオリティである。しかしこのレストランも他と同じように、気持よく食事を楽しむというより、雰囲気や見栄えに気を配っているという感じがした。

以上はいわゆる「高級レストラン」である。もっと手頃な価格で楽しめるレストランは、それほど気取りがない。南麻布のアロマフレスカはテーブル席数こそ少ないものの、ウェイターはでしゃばらず、落ち着いた気持ちで食事を楽しめる。青山にあるイッセイ三宅のブティックの裏の、エトゥルスキというレストランも、緑に囲まれた中でおいしい食事を楽しめる。

人が集まる場所ばかりに「おいしいレストラン」があるわけではない。四の橋付近の商店街にあるラビリンスでは個性あふれるフランス料理が、ほどよく散らかったフランス人のリビングみたいな店内で、簡単に料理の説明をしてくれるウェイターによって運ばれる。慶応大学のそばにあるラ・バスティードは、以前ハブリ日記でも紹介した(2007年4月20日)。フランス料理レ・シュー(麻布十番)やイタリア料理ビット(白金)の食事も保証できる。おそらく東京都内や近郊には、パリやローマにある本場のレストランに引けを取らないような、フランス/イタリア料理店が数百以上あるにちがいない。

高級レストランでの食事は、最高の味を追求するというより、創作的な料理と過剰なお辞儀に重点が置かれているように感じた。だから当然、そうしたレストランは金に糸目をつけない気取った人たちを惹きつけ、ビジネスの接待の場として活用されるのだ。しかし、財布に余裕があれば、ごく普通のカップルや女性のグループ客も歓迎される。

そういう意味では、日本はほんとうに民主主義の社会だと言えるだろう。戦前の日本にはまだ残っていた階級差が完全に消え去った。職場における年功序列はまだ明らかにあるだろうし、結婚式や葬式やその他のフォーマルな場における服装のきまりなども日本人はきちんと守る。しかし自分の時間を家族や友人と過ごす時には、自由な服装で好きな場所へ出かける。裕福層もそれほどでもない人たちも、少なくともわたしと友人が出かけたレストランでは、互いに干渉せずにそれぞれの時間を楽しんでいた。「民主化された人生の愉悦」とでも呼ぼうか。高級レストランだからといって着飾る必要もない。むしろ値の張るレストランほど、Tシャツとジーンズという服装が目立った。

それから、西洋料理が日本人にすっかり馴染みの料理となった事実も、変容する日本の社会の一面と言えるだろう。これはレストランのみにとどまらない。西洋料理のクッキングスクールは人気があり、TVの料理番組はラタトゥイユやペストソース(バジリコソース)といったレシピ(しかも本格的なもの)を主婦に提供している。おかげで日本の食卓はバラエティーに富んだものとなった。

西洋料理は珍しいから人気があるということは確かだ。高級レストランはそのあたりをよく心得ている。劇場空間のようなレストラン内で、ウェイターたちはワインの値段をそれなりのレベルに上げて、人々はワインを拝むように飲んでいる。世界中のワインがレストランでもスーパーでも容易に手に入り、日本人はワインをたしなむだけではなく、時には日本食にも酒よりワインを選ぶほどワインを知りつくしている。しかし実際のところ、いまだにレストランではワインを注ぐ時には緊張の面持ちを隠せず、テーブルワインのボトルですら5倍から8倍の値段がつき、ワインを手酌でもしたらビストロですら、日本では眉をひそめられてしまう。ウェイターやソムリエは空のグラスを見つけたら、ただちにワインを注いでくれるのだ。

わたしの不満はグラスでワインを頼むと、必ずといっていいほどウェイターはわずかばかりの量しか注いでくれないことだ。また、グラスワインの種類は限られているので、違うワインをいろいろと試してみることもできない。妥当な値段でカラフェを飲めるレストランも、まだ多くはない。ボトルの注文はあれほど選択肢が豊富なのに、グラスワインとなると事情はずいぶん違うと言えよう。 些細な文句はさておき、東京をはじめとする日本の都市の食文化は、この数十年間に大きく変わったといえるのではないだろうか。殊に高級レストランの存在は料亭文化をずいぶん縮小させたほどだ。これは無視できない日本の食文化の変化といえよう。

それにもかかわらず、大半の日本人の主食は日本食が中心だ。西洋料理が主食になることはないが、気分転換として気軽に食されていることは明らかだ。

ほかの分野でも同じようなことが言えるが、日本人は自分の身丈にあった西洋料理を取り入れ、自分たちの味覚にあった味付けをしているのだ。

(平成20年7月8日 溝口広美訳)


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