21世紀のはじめに日本について考える

太田道灌像日本が他の先進国と違う点は独自の伝統や価値観を温存しつつ、社会は完全に西欧化をなしとげ発展しているところにあるとわたしは思う。

二百年近くにおよぶ鎖国と封建制度のなかで育まれた礼や誉れ、宗教、モラルなどの伝統的概念と社会構造を、西洋から「輸入」してきたサイエンスやシステムにあてはめるという複雑な作業に日本が成功したという事実は、日本の近代国家形成という偉業のなかでも、最も素晴らしいものだ。だが、それゆえに日本人の心の中に、どうも「永遠の二項対立」とも呼ぶべき矛盾が生じたようである。

アジアに根をおろしつつ、同時に西洋へ傾倒せざるをえない葛藤。この相反する立場をどうやってひとつにまとめたらいいのだろうか。日本が一世紀以上にわたり悩み続けているこの難題は、国内の技術力を高め高度経済成長をなしとげ、成熟をとげた21世紀の現代においても解決されていない。どれだけ多くの日本人が海外旅行をしても解決策は見つからない。日本が真面目な態度で「世界に加わろう」とがんばっても、ある種の島国根性は消え去らないように感じられる。

こんにちの20代30代の若者たちの多くが会社や上司へ生涯の忠誠心を誓い一心不乱に働くという、古い世代の価値観を拒否していることは確かにわかる。しかし彼らの行動は政治的イデオロギーや社会的思想に影響されたものというよりもむしろ、場合によっては独善的で行き当たりばったりという印象すら受ける。彼らの多くは自分で考えることの重要さや深く考える技術を教わってはいないのだろう。だから反抗的態度をしめしている時ですら、彼らは自信なくひ弱にうつる。まるで船から飛び降りたものの、誰かが最寄りの海岸の方向を指し示してくれないかな、と願っているようだ。あるいは助けてもらったものの、そこで待ちうけていたのは自分が否定していた前時代的価値観の強要だったという、笑えない話すらある。ネットコミュニケーションでの結束性。エコロジカル運動や海外支援活動における上下関係。極端な例としては右翼の愛国運動。彼らはいつも新たな人材をリクルートしている。

強い野心や明確なモーティベーションをもった人々はたとえ時流に逆らっていようとも必ず己の道を見つけだすものだ。実業家、フリーランス、芸術家といった独立性の高い職業についている人たちにはそうした傾向があるようだ。彼らの斬新な考え方や物事への取り組み方は日本の社会というパレットに新しい色をつけ加えていると言えよう。政治的なインパクトは少ないが、そうした人たちの存在は21世紀の日本にとって重要な要素である。

一枚岩的社会のおわり

最近の若者たちが、画一的な社会のしきたりから解放され自由になろうとしていることは素晴らしいと思う。古い世代の日本人は勤勉と献身を美徳とした昭和に生まれ育った。「個人」などという概念は教わりもしなかったし望まなかった(たとえ時代は西洋の技術・資金・市場をどん欲に求めていたとしても…)。まさにそのような意味でこれまでの50年間の日本と西洋の経験は根本的に異なるわけだ。

アメリカやヨーロッパでは個人が主体であり、行動基準も集団ではなく個人に依拠する場合が多い。「他者」や「よその文化」をライバル視し、その結果自分の優位を確認するといった振る舞いは少なくとも最近までは稀であった。長い間、欧米諸国は十分な影響力と自国の文化をしっかり持っていたので、異文化とは鑑賞するもの、または愉快な気晴らしとみなし、そしてそれが面倒になると「解決すべき問題」としてあしらってきたわけである。

その反対に、昭和期の日本人は年功序列、敬意と寡黙の美、集団倫理という伝統と、西洋流の「民主主義、かけひき、個人のイニシアチブ」の実践のはざまで常に綱渡りをしなければならなかったといえよう。欧米人によくある「でたとこ勝負」というやり方に直面した日本人ビジネスマンや官僚たちは、日本的な忠誠心やアイデンティティーのかけらを失うことなく、しかし相手にあわせる素振りをしなければならなかった。そのため彼らは時には率直な意見を述べたり、ギブ・アンド・テイクの交渉にのるかわりに、微笑みに満ちた礼儀正しさやわけのわからぬ無礼さの壁の向こうへ雲隠れしてしまうのだった。

かつて日本の某大企業の重役のもとを訪れた時のことを思い出す。それは二度目の訪問だった。当時わたしが勤めていた外資系銀行がこの会社にかなりの肩入れをしたので、そのかわりにうちで口座を開いてもらえないかとお願いをするために出かけた。先方からいつものようにうやうやしく儀礼的な態度で迎えられ、世間話をひとしきりしたところで、わたしはあらためて自分の銀行で口座を開いてもらえないかという話をもちかけた。ふーっと息を吐くと、重役は自分の隣にいた部下がひそひそと何かを言った後に、「今の時点では」わたしのリクエストを聞き入れることは「むずかしい」かもしれないと答えた。重々しい口調でこう言いながら彼はひとりうなずきつつ「どうかわれわれの立場を理解してください」とつけくわえた。

わたしはそう簡単にあきらめることができず、なぜうちと取り引きをすると相手の利益になるのかという点を説明した。また、これは古くからビジネスの場では慣行されている立派な返礼行為にすぎないこともほのめかした。すると重役は突然椅子から立ち上がり、別の約束があるからと言って、部下にわたしの相手をするように指示すると不機嫌な表情で部屋を出て行ってしまった。

わたしが日本のビジネスエチケットのいろはを無視していたのは明らかだったかもしれないが、説明もなしに冷たくされ、あたかも彼から無視されたように感じた。この事件からわたしが学んだことは、日本人相手に「開かれた対話」を期待しないように、ということだった。

日本での体験を通して、やがてわたしが気づいたのは、アメリカやイギリスやオランダで働く方が自分にとってはもっと自然で気分的にも楽だということだった。はっきりと自己主張するアメリカ流のやり方のほうが日本的な堂堂巡りより好ましく思えた。西洋社会では、観測気球をあげて様子を見る事は普通で、些細なエラーには目をつぶり、解放的な議論はむしろ必須といえよう。活発な意見交換は当然なことだし、対立が起きたとしてもそれは脳への酸素供給の促進のようなものにすぎない。企業にかぎらず、政治レヴェルや知識層も含めあらゆる場面でこうした風通しのよい意見交換が見られる。しかもたいていの場合、なんらかの結論は下されるわけだ。

「21世紀の日本において新しいものとは何か?」

1980年代から90年代にかけて、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアから日本へ向うたび、何度となく心に浮かんだのは、昔にくらべ日本の社会も少しは融通がきくようになったのだろうかということだった。わたしはいつもこちらをあっといわせるような感触を期待していた。実験的で議論的で型やぶりで大胆な何か。年功序列ではなく能力による昇進。政界や学界のきしみの激しい歯車にそそがれるいくばくかの潤滑油。

だが、いったん日本に落ち着き「おかえりなさい」というあたたかい言葉をかけられた途端、探求心は萎えてしまうのだった。安全で平和な環境に包み込まれると、こちらの批判の手もついゆるんでしまう。あっと驚くなにかを期待していることのほうがまちがっていると思えてくるわけだ。そういうことを考えること自体が典型的な「西洋人の偏見」であるのだから…。

そこでついに2002年の夏、日本の現状について真面目に調査をしてみようと決意した。当時の日本は十年ちかく続く不景気に耐えつつ、未来を見つめ直そうともがいていた。自らを律して対象を見つめだしてみると、自分が暮らしていた昭和の頃(昭和25年から48年)の日本と、バブル経済がはじけた後のもっと厳しい状況にとりかこまれた平成の日本との間に、ある種の断絶があることに気がついた。著名な会社が吸収合併され、あるいは倒産し、安定した雇用は保証されなくなり、フリーターやニート世代が生まれ、以前にくらべ日本の町には外国人の数が増えた。女性は以前に比べ独立心が強まり、出産率は急激に低下し、急速に膨らむ国家の赤字額と年金制度の行く末に対する不安は深まるばかりだ。

古き良き時代の昭和を懐かしむ気持ちになるのももっともだろう。確固たる目標があった。終身雇用制度は保証されていた。暮らしがよくなるというムードがあった。何冊にもおよぶ当時のアルバムのページをめくりながら、わたしもそういう懐かしさを感じる。だが感傷にひたっても新たに生まれてきた難題を解決できるわけではない。勤勉で希望にあふれる戦後の昭和と荒れ狂う平成の違いについて、両時代のつながりについていろいろと考えてみた。数年間におよぶリサーチ、旅行、議論、思索などをもとに、現在わたしは出版にむけて原稿を執筆中である。

(平成18年8月 溝口広美訳)


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