2010年7月22日

咸臨丸が日本へ旅立った港 − ヘルフットスラウス(Hellevoetsluis)

溝口広美


咸臨丸

司馬遼太郎の『オランダ紀行』を読んで以来、オランダを訪れる時には咸臨丸ゆかりの土地を見てみたいと思っていた。

咸臨丸はキンデルダイク(Kinderdijk)の造船所でつくられ、ヘルフットスラウスという軍港から日本へ向かった。時間がなかったので、今回は港だけを見ることにした。


ロッテルダムから車で西へ25キロほど走ると、“Hellevoetsluis”と記された道路標識が見えて来た。しかし、牧草地と畑が広がるばかりで、港らしきものは見当たらない。オランダの風物詩ともいえる風車も見当たらない。そのかわり、白くスリムな風力発電用風車が平坦な土地に林立している。

駐車場を見つけたので、いったん車を降りて歩いてみることにした。ついでに昼食をとりたかったが、駐車場のそばにあったレストランは閉まっていた。水辺にそって歩いていたら、カフェらしきものを見つけた。お客は誰もいない。カフェの従業員が「どこでも好きな席にどうぞ」というジェスチャーをみせたので、外に並んでいたテーブルの一つにつき、パンケーキを頼み、目の前に広がる景色をながめた。木々の茂みの間から湖が見える。どこに港があるのだろうか?カフェのトイレを使用するため店中に入ると、反対側はにぎやかで明るい様子だ。覗いてみると、波止場になっており、そこに5つほどのテーブルがセットされ、カップルやグループ客が食事をしていた。ヨットハーバーと燈台が目の前に現れた。その先は北海だ。湖と思っていたが、実は入り江だったのか。わたしたちはさっそく木陰のテーブルから、明るく開放的な波止場のテーブルへ移動した。コーヒーを飲みながらあたりを眺めてみると、対岸にはパステルカラーの建物が建ち並び、風車も見える。すぐ隣りは水門を閉めた乾ドックだった。そこに一艘の船がすっぽりとおさまっており、男性と女性がその船を整える作業をしていた。白い船体が美しく輝いていた。

1857年の春、咸臨丸はここから日本へ旅立った。ペリーの黒船来航(1853年6月)から、4年後のことだった。

観光案内所で、咸臨丸について聞いてみることにした。かつてこの港には、航海に都合のよい風の吹くことを待って、さまざまな船が集まっていた。咸臨丸も、船出の時期を見計らいながら出航したにちがいない。

ウィレム3世の大艦隊
ヘルフットスラウス港から出航する
ウィレム3世の大艦隊(1688年)

観光案内所を探しながら歩いていると、教会やウィリアム3世ゆかりの館などを見つけた。1688年、オランダ人ウィレム3世はオランダ軍を率いてイングランドに上陸し、ウィリアム3世としてイングランド国王に即位した。名誉革命だ。オランダ軍を乗せた彼の船もまた、この港から出航した。

橋の近くにあるカフェは、外に椅子とテーブルを出したアルフレスコ(Al Fresco)スタイルで、サングラスをかけた客が太陽に顔を向けて座っている。夏のヨーロッパを旅すると、必ず見かける光景だ。小麦色の肌に憧れ、ほんの短い時間でも日光浴に余念がない。カフェの目の前にある橋は跳ね橋で、港に停泊しているヨットが通過するたび、この橋が開く。

ようやく地形が把握できた。つまり、この港町は典型的な要塞都市で、外濠がめぐらされ、その中に星形の島がある。その島の中心に細長い扇状の港があり、もっとも内陸に入り込んだ一端が乾ドックになっている。乾ドックのちょうど反対側には北海へつながる水路がもうけられ、港に停泊していた船はそこを通過して出航したのだろう。

橋のほとりで、水門を通過するヨットを眺めた。ヨットは大きさに関係なく、どれも小型エンジンを搭載している。

観光案内所のスタッフは咸臨丸のことを知らなかったが、古物陳列館に行けば情報がえられるかもしれないと教わった。

案内所の対面にある建物の2階に、その古物陳列館がある。日本の郷土資料館のおもむきがあり、部屋には古ぼけたガラスケースが整然と並べられ、壁には白黒写真や古いポスター、新聞や雑誌の記事などが飾られていた。咸臨丸のことを知りたいと言うと、隣の小部屋から長身の男性が現れた。郷土史家のヴァン=クラーリンゲン氏で、咸臨丸のことは聞いたことがあるが、陳列資料はない、だが、数年前に教会の中で咸臨丸に関する催し物があったと話してくれた。

古地図を示しながら、咸臨丸が日本へ向けて出航した当時の港の様子を説明してくれた。港では、常時何十艘もの船が停泊しており、咸臨丸も他の船同様、天候をみながら出航の時期を待ったにちがいない。

咸臨丸停泊場所
咸臨丸が停泊していたにちがいない場所
現在
現在はこうなっている

ウィリアム3世の船も確かにこの港からイングランドへ向けて出航した。今でも記念祭が行われている。当時のコスチュームを着た人々が港に集まっている写真が壁に飾ってあった。

古物陳列館
古物陳列館にて

それにしても気になるのは、この港町の名前の由来だ。司馬遼太郎は独自のユーモアで「地獄(ヘル)への第一歩(フート)の水門(スライス)」と解説しているが、実は地名の由来はいまだに謎だという。一説では、ヘル川(Helle)の河口(voet)にある水門(sluis)ともいわれているが、ヴァン=クラーリンゲン氏は「ヘル川の河口」の部分は定かではないと言う。ヘル川という名の小川があったかもしれないが、今は存在しない。

日本の地名にも、由来が定かではない不思議なものがある。神話にまつわる地名もある。オランダでは聖人の名前が地名の一部になる。司馬遼太郎が「女房干拓地」と解釈したフラウエンポルダー(Vrouwenpolder)の「フラウエン」は「女房」ではなく「聖マリア」だそうだ。「女房干拓地」と呼ぶと庶民的でたくましい響きがあるが、「聖マリア干拓地」のほうが土地に対するオランダ人の特別な思いを反映しているといえよう。繰り返す水害に耐え忍び、水と闘いながら干拓事業をこつこつと進めた人間の努力と祈りが想像できる。

咸臨丸の「咸臨」とは、「君臣が互いに親しみ合うこと」という意味で、『易経』より引用された。尊王攘夷と佐幕開国が対立するなかで幕府が命名したものだ。

イングランドに名誉革命をもたらすこととなるウィリアム3世が旅立ち、勝海舟や福沢諭吉が渡米するために使用されることとなる咸臨丸が船出をした港は、現在ヨットハーバーとして整備され、クルージングを楽しむ人々を乗せたヨットやボートがひしめきあっていた。


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