書評 英字新聞ジャパンタイムズ 2011年11月6日(日曜日)付

対訳付詩集『終わらない一日 〜 ハンス・ブリンクマン詩集』(トラフォード出版、2011年)

四季折々にふさわしい言葉 評者:スティーブン・マンスフィールド

実際にハンス・ブリンクマンに会ってみると、もてなしの達人あるいは、習熟したセレモニー進行役さながらの気品をかもしだす小粋なヨーロピアン紳士であるわけだが、長い年月を重ねて編み出されたこの詩集を読んでみると、彼は、ひょっとして、中国の清朝でもっとも高名な学者といわれる陳扶搖(チンフヨウ)のように、シルクの冬長衣を難なく着こなすこともできるのではと思ってしまう。

世界中の大都市で暮らしたブリンクマンの詩は、詩における二大テーマともいえる「時間の流れと「実質的なリアリティに焦点をあてる。文学の豊かさは、長寿と関係することもある。現在80代の、カリブ海セントルシア島生まれの詩人デレック・ウォルコット(1992年ノーベル文学賞受賞)のように、齢を重ねるにつれ、ますます磨きがかかる詩人もいる。1950年に初めて東京にやって来て、その後日本を離れたものの、数年前に再び東京暮らしを始めたブリンクマンもまた、詩人であり、現在も文筆活動を進行中である。

文学ジャンルのなかで最も難しいのが詩であることは周知のとおりだ。言葉との苦しい格闘をするものの、真の傑作が生まれる確率は低い。一方で、詩の鑑賞はごく自然にできる。内面的なもの、祖先の音楽を奏でるもの、返るのではなく戻るべき流れのようなものが、詩であるのだろう。

ブリンクマンの詩は必ずしも自然をテーマとしているわけではないが、ありのままの自然な人間だけは別だ。それぞれの詩の最後に、創作した年と場所の名前が記されている。国際銀行のキャリアに加え、知的好奇心あふれる旅行家ゆえ、創作した場所もヴェニス、シドニー、京都、ビバリーヒルズ、さらにはパリのシェルシュ・ミディ通りにあるビストロ“ジョセフィーヌ”といろいろだ。

詩とは人生を描写するのではなく、生きていることを表現することであると、どこかでブリンクマンは書いている。たしかに、彼の詩は読み手に答えを与えようとはせず、むしろ、強烈なイメジャリーによって問いかけ、気づかせようとする。

『計算高い男』という詩は、このようにはじまる。

「風にまかせて飛ぶことができ
不義を犯した友を許すことができ…(略)」

『最終列車』のはじまりは、

「未亡人たちがどっしりと降りてくる
まるで塗りたくられた鉛製のバルーンのように」

『聖なるグリーン』は、いささか大げさに利用されている緑色(グリーン)に対する、ささやかな抵抗の詩だ。

「ゴルゴダの丘の使徒たちのように
急増する聖職者たち」

喪失と慕情を詠む詩もある。痛みを和らげることはできないが、あいたままの傷口をどうにかふさぐことはできる。愛する人が永眠することにとまどう気持ちは、哀惜というより喪失に近い。

「あなたの墓は石の家にすぎない
じっと見つめる − でも、そこにあなたはいない」

観察と同時性という、詩人だけが駆使できる様式を体現した詩もある。著名なオランダの女流作家と交わしたキノコについての会話が、一瞬にして、大阪のバーで白い両手を開いた少女に変わる。

「少女があばいた秘密。それは
広島のキノコ雲で黒焦げにされた左右の手のひら」

あるいは、神話の書き換えを試みる詩もある。毋の原型=イブは追放された罪人ではなく、生の謳歌とセクシュアリティの反復を約束するものであり、宿命のリンゴは、アダムに差し出されたのではない。

「通りすがりの馬上の男に差し出した
男の飢えと馬に乗りたいというイブの渇望が一致した」

本書の巻末を飾るのは『希望の丘のバラード』だ。詩集のなかで最も長いこの作品は、ヴィクトリア朝詩人マシュー・アーノルドやアーサー・ヒュー・クラフの文体をどことなく思わせる。作品にあふれる楽観は時間を超越し、潮流をなし、環状を描く。吟遊詩人オルフェウスのように、隠された人間の本質と歴史のかたちをあからさまにしてゆく。

ブリンクマンは、終始、時間の流れによって力を満たすミディエーターとして自らを位置づける。ちっぽけな人間存在に宿る何らかの美の姿を拒む詩人もいる。偉大な詩人ですらそうだ。ブリンクマンは、人生のみなぎる活気を讃える。たとえ、年とともに、その活気が穏やかな流れのなかで変化してゆこうとも。

冬を、静かな喜びと瞑想と学問の季節と信じていた中国の文人たちのように、詩人の成熟期とは、哲学的思考にもっともふさわしい季節といえよう。

(訳者 溝口広美)


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