***3月***

3月10日 再生可能エネルギーは成功するか?

1997年に京都議定書が採択された当時、地球温暖化防止のため、日本は率先して温室効果ガスの排出規制に取り組むだろうと期待されていた。ところが、この20年間に、成果をあげたかというと、そうでもなさそうだ。このたび、気候変動に関する有識者会合が河野外相に「厳しい提言」を取りまとめた。現在、日本の石炭エネルギーは26パーセントを占め、増加傾向にあるが、提言では、削減及び最終的には石炭エネルギーを廃止するよう指摘している。

日本では、確かに、再生可能エネルギーの比率がこの数年で上昇しており、2016年には発電電力量の約15パーセントを、再生可能エネルギーが占めている。ところが、安倍内閣のエネルギー政策は原発維持なので、再エネに対しては消極的だ。世界のエネルギー供給のうち、24パーセントが再エネを占めていることを踏まえ、河野外相は日本の再エネ導入の取り組みは「嘆かわしい」と述べ、「新しい思考で再生可能エネルギー外交を展開する」と訴えた。彼は、影響力のある原発推進側と対立することになるだろう。

悲しいかな、再エネ政策に関しては、オランダも、日本と似たような状況だ。2020年までに、自然エネルギー供給率を12.4パーセントと掲げているが、これはEUの目標とする14パーセントを下回っている。また、オランダは、2030年までに再エネ率を24パーセントに達するよう取り組んでいるが、これは、2015年のパリ協定で設定された26パーセントより低い数値だ。

風力タービン
オランダの風力タービン

日本もオランダも、再エネとなる源が沢山ある。風力、太陽光、バイオマス(生物資源)、水力、そして特に日本では地熱など。気候変動問題が重要課題となっていることを考えると、今後は、日本とオランダが積極的に自然エネルギー導入に取り組むことを期待したい!


3月28日 今年もまた、桜の季節!

観光客も含め、日本のお花見に熱狂する様子については、説明する必要などないだろう。当サイトのトップページの写真が雄弁に語っている。

ところで、花見のせいで、空港の出入国審査の混雑や、桜の名所付近の道路に渋滞が生じていることについては、あまり知られていないようだ。成田空港の入国カウンターの前には長い行列ができ、各地のお花見スポット周辺は、うんざりするほどの渋滞が常習化している。

桜

桜を見に来る観光客のみが、空港の混雑の原因というわけではない。新学期に間に合うよう来日する外国人学生も、一因といえよう。

待ち時間を短縮するため、成田空港では日本人の入国審査に顔認証を利用したシステムを導入する予定だ。時間が短縮され、さらなる外国人旅行者が見込まれ、これで空港全体の合理化が進むだろう。

2017年の成田空港における国際線発着回数は最高記録となる19万7458回で、国際線外国人旅客数も過去最高の1551万4180人。

***4月***

4月2日 日本の24倍もの農産物を輸出しているオランダ

オランダと言えばチーズとチューリップ。ところで、オランダは小さい国ながら、トマトやピーマンやキュウリなどの農産物や肉、それからチーズも含めた酪農製品などを輸出する、世界でも有数の農産物の輸出大国だ。

農産物輸出大国

オランダの陸地面積(33、900平方キロメートル)は、日本の陸地面積(364、560平方キロメートル)の約9パーセントでしかなく、オランダの人口170万人は、日本の人口(1億2700万人)のたった13.4パーセントにすぎない。ところが、2017年の農産物輸出額は、驚くなかれ、910億7000万ユーロ、つまり12兆円で、日本の輸出額4970億円の約24倍。

もちろん、それは、平らな土地のおかげで、オランダ国土の約55パーセントが農業に適しており、そのうちの31パーセントの土地で、なんらかの収穫がなされている。国土の73パーセントあまりが山の日本では、農業に適した土地はわずかに12パーセント。オランダには小さな山がひとつあるのみ。標高322メートルのファールゼルベルグと呼ばれる山で、心の広いオランダ人は、その山をドイツとベルギーと分かち合っており、三国国境があるのだ。

2017年の日本の農林水産物・食品の輸出額は8,073億円だったが、安倍内閣が目標としている「2019年に輸出額1兆円」には届かない。

チューリップ

チューリップの国オランダにとって、花や木や球根が、主力輸出製品であるのは当然だ。2017年の輸出額は60億ユーロ。世界の花産業の44パーセントを、オランダが占めており、世界のトップ国となっている。

オランダの花産業の歴史における唯一の異常な出来事は、17世紀に生じた「チューリップバブル」だろう。チューリップの球根が異常に高騰し、突然暴落した経済現象だ。バブル最盛期に最高値で取引されたセンペル・アウグストス(写真)の球根は、2、500フロリンという値がつけられた。今なら6万4500ユーロ、つまり、850万円ほどか。バブル崩壊後、オランダは同じ間違いを繰り返しはしなかった。オランダの平らな土地が、ようやく、平らに治めてくれたようだ。

4月3日 朝鮮半島に和平の兆しか

平昌オリンピック後に、アメリカと北朝鮮の間で、予想もしなかったような動きが起こり、朝鮮半島における戦争の可能性が、一気に弱まった。日本も巻き込まれるに違いない戦争の可能性である。平和外交を展開する文韓国大統領と、5月までに金正恩朝鮮労働党委員長と会談することを表明したトランプ米大統領は、東アジアの安定化を目指して第一歩を踏み出した。

だが、諸手を挙げて喜ぶには、まだ早い。衝突の兆しが、再び、醜い頭をもたげ始めた。トランプ大統領は、国家安全保障問題担当補佐官として、新たに超タカ派のジョン・ボルトン氏を任命。「辞任」「解任」が絶えないホワイトハウスの人事に、さらなる不確定要素が追加された。ボルトン氏は、軍事力行使を「好む」ことで知られており、北朝鮮問題に平和的解決はなしとし、外交は降伏とみなしている、と言われている。

トランプ大統領が北朝鮮との和平に向けた対話を堅持し、横槍を入れようとするボルトン氏に逆らうことを、切に願うだけだ。

***2月***

2月12日 平昌オリンピック開幕、それでも払拭できない戦争勃発の可能性

第23回オリンピック冬季競技大会が開幕した。福岡から約450キロ離れた平昌で行われた2月9日の開幕式は、予想通り、壮大な演出が2時間あまりつづき、世界中で視聴された。

ところが、文大統領の、北朝鮮の女子アイスホッケー選手を招き合同チームとして参加させること、開会式で韓国と北朝鮮が「南北統一旗」で入場することが、韓国国内で物議を呼んだ。さらに、金正恩の実妹の金永南を開会式に招いたことで(ペンス米副大統領は彼女を無視)、ますます批判が高まった。「南北和解、いや、統一の第一歩」という意見もあるが、やはり、文大統領は卑劣な北朝鮮におべっかを使っていると否定的だ。

本日の米紙ワシントン・ポストは、ペンス副大統領が、前提条件なしで米朝対話の行われる可能性を示唆したと報じた。

だが、これで朝鮮半島における戦争の可能性がなくなったという訳ではない。ペンス副大統領は、北朝鮮が非核化に応じるまで、最大限の圧力を維持することを明らかにしているが、金正恩は断じて応じないことを繰り返している。それでも、少なくとも、対話再開の動きはあるようだ。日本に住んでいる私にとって、朝鮮半島で戦争が勃発することなど、想像もつかないような事態だ。ちなみに福岡市と釜山市の距離はたったの214キロ。フェリーで3時間、飛行機だったら1時間もかからないほど近い。朝鮮半島で戦争が始まったら米朝戦争となり、日本も確実に巻き込まれる。

誰もが正気を失うことのないよう、祈るばかりだ。やはり、核武装する北朝鮮を認め、これ以上の核開発を規制する策を講じるしかないのでは。

***1月***

1月16日 日蘭協会の歴史をたどる

日蘭協会新年会 ブリンクマン氏と溝口氏

学士会館で行われた日蘭協会新年会へ出席した。富士写真フイルム株式会社の古森重隆社長が、2005年より会長を務めている。

現在42の法人会員と、286名の個人会員から成る日蘭協会は、日本とオランダの文化およびビジネスにおける相互関係発展のために、重要な役割を担い続けている。

日蘭協会が発足したのは1912年のことだった。初代会長は大隈重信伯爵。1838年に佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれた重信は、15歳の時、佐賀藩蘭学寮で蘭学を学び、長崎でオランダ出身の宣教師グイド・フルベッキと出会った。後にフルベッキは、明治政府より大学設立および教育を任され、大隈重信は1882年に東京専門学校(現早稲田大学)を開設。大隈は、外務大臣に就任した翌年の1889年、西洋化に反対する国家主義組織から爆弾による襲撃を受け右足を切断、外相を辞職したのだが、1896年に再び外相に就任、1898年には総理大臣として日本初の政党内閣を組閣した。1907年に政界を退き、早稲田大学総長を務めた。生涯を通じて、オランダに対する興味は尽きず、1912年に日蘭協会を発足したことは、その証といえよう。

1914年、日蘭協会は『オランダと日本』を出版。大隈重信が序文を寄せている。

Netherlands and Japan 1 Netherlands and Japan 2

第2次世界大戦中に活動を停止した日蘭協会は、1954年に再発足し、以来今日に至るまで、様々な活動に取り組んでいる。

1959年には、松下電器産業の創業者である松下幸之助氏が関西日蘭協会を発足し、初代会長に就任。1989年に亡くなるまでの30年間にわたり、会長として活躍した。私が初めて松下社長に会ったのは、1960年の大阪でのことだった(当時の私はナショナルハンデルス銀行大阪支店の副支店長だった)。

Time Magazine

それから7年後の1967年の東京で、フィリップス社日本代表のヤン・ファン・ヘイマト氏がささやかな宴を自宅で開き、来賓として松下氏が招かれたのは、1952年に松下電器がフィリップス社と技術提携を交わした経緯からだった。その宴の席で、私は、松下氏の秘めた才能を発見したのである。この忘れられない思い出を綴ったのが『意外な演技力?松下幸之助のおもいで』というエッセイ。詳細はこちら

そしてこの度、日本外国特派員協会の会員誌Number 1 Shimbun(January 2018 Volume 50)に、原文が掲載された。

His Hidden Acting Talent - A Memorable Evening With Konosuke Mastushita, Founder of Panasonic



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