***1月***

1月16日 日蘭協会の歴史をたどる

日蘭協会新年会 ブリンクマン氏と溝口氏

学士会館で行われた日蘭協会新年会へ出席した。富士写真フイルム株式会社の古森重隆社長が、2005年より会長を務めている。

現在42の法人会員と、286名の個人会員から成る日蘭協会は、日本とオランダの文化およびビジネスにおける相互関係発展のために、重要な役割を担い続けている。

日蘭協会が発足したのは1912年のことだった。初代会長は大隈重信伯爵。1838年に佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれた重信は、15歳の時、佐賀藩蘭学寮で蘭学を学び、長崎でオランダ出身の宣教師グイド・フルベッキと出会った。後にフルベッキは、明治政府より大学設立および教育を任され、大隈重信は1882年に東京専門学校(現早稲田大学)を開設。大隈は、外務大臣に就任した翌年の1889年、西洋化に反対する国家主義組織から爆弾による襲撃を受け右足を切断、外相を辞職したのだが、1896年に再び外相に就任、1898年には総理大臣として日本初の政党内閣を組閣した。1907年に政界を退き、早稲田大学総長を務めた。生涯を通じて、オランダに対する興味は尽きず、1912年に日蘭協会を発足したことは、その証といえよう。

1914年、日蘭協会は『オランダと日本』を出版。大隈重信が序文を寄せている。

Netherlands and Japan 1 Netherlands and Japan 2

第2次世界大戦中に活動を停止した日蘭協会は、1954年に再発足し、以来今日に至るまで、様々な活動に取り組んでいる。

1959年には、松下電器産業の創業者である松下幸之助氏が関西日蘭協会を発足し、初代会長に就任。1989年に亡くなるまでの30年間にわたり、会長として活躍した。私が初めて松下社長に会ったのは、1960年の大阪でのことだった(当時の私はナショナルハンデルス銀行大阪支店の副支店長だった)。

Time Magazine

それから7年後の1967年の東京で、フィリップス社日本代表のヤン・ファン・ヘイマト氏がささやかな宴を自宅で開き、来賓として松下氏が招かれたのは、1952年に松下電器がフィリップス社と技術提携を交わした経緯からだった。その宴の席で、私は、松下氏の秘めた才能を発見したのである。この忘れられない思い出を綴ったのが『意外な演技力?松下幸之助のおもいで』というエッセイ。詳細はこちら

そしてこの度、日本外国特派員協会の会員誌Number 1 Shimbun(January 2018 Volume 50)に、原文が掲載された。

His Hidden Acting Talent - A Memorable Evening With Konosuke Mastushita, Founder of Panasonic

***2月***

2月12日 平昌オリンピック開幕、それでも払拭できない戦争勃発の可能性

第23回オリンピック冬季競技大会が開幕した。福岡から約450キロ離れた平昌で行われた2月9日の開幕式は、予想通り、壮大な演出が2時間あまりつづき、世界中で視聴された。

ところが、文大統領の、北朝鮮の女子アイスホッケー選手を招き合同チームとして参加させること、開会式で韓国と北朝鮮が「南北統一旗」で入場することが、韓国国内で物議を呼んだ。さらに、金正恩の実妹の金永南を開会式に招いたことで(ペンス米副大統領は彼女を無視)、ますます批判が高まった。「南北和解、いや、統一の第一歩」という意見もあるが、やはり、文大統領は卑劣な北朝鮮におべっかを使っていると否定的だ。

本日の米紙ワシントン・ポストは、ペンス副大統領が、前提条件なしで米朝対話の行われる可能性を示唆したと報じた。

だが、これで朝鮮半島における戦争の可能性がなくなったという訳ではない。ペンス副大統領は、北朝鮮が非核化に応じるまで、最大限の圧力を維持することを明らかにしているが、金正恩は断じて応じないことを繰り返している。それでも、少なくとも、対話再開の動きはあるようだ。日本に住んでいる私にとって、朝鮮半島で戦争が勃発することなど、想像もつかないような事態だ。ちなみに福岡市と釜山市の距離はたったの214キロ。フェリーで3時間、飛行機だったら1時間もかからないほど近い。朝鮮半島で戦争が始まったら米朝戦争となり、日本も確実に巻き込まれる。

誰もが正気を失うことのないよう、祈るばかりだ。やはり、核武装する北朝鮮を認め、これ以上の核開発を規制する策を講じるしかないのでは。



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